大講堂から見える高齢者専用高級マンションに目を向けたまま「50年だ」と呟く男を、私は知らない。其の呟きが私に向けられたものなのかも解らないので返事をするか判断出来ないでいる。50年という呟きが気にならないわけではない、大いに気になっているのは確かだ。授業開始から既に10分が過ぎたと思うが、男は其れ切り一言も発しない。学内一大きな講堂の無駄に大きな黒板の前でマイクを握って専門用語ばかりを喋っている白髪まじり教授から視線を逸らす。異国語のような格好をしたカタカナが私の耳をすり抜けて脳をもすり抜けて窓ガラスにぶち当たる。此処は日本だぞ!と叫ぶ私の心は、いつだって紙の上を滑るシャーペンの音によって砕かれてばかりだ そんな感情でモヤモヤしながら逸らした視線が捉えたのは、黒ブチの眼鏡をかけていて髪の毛は茶色く短い何処にでも居るような容姿の、さっきの変な男。足元はビーチサンダルで上着は緑色のジャージ、そしてボロボロのジーンズを穿いている。実にだらしがない、まさに私の一番苦手とするタイプ。おまけに、机の上には筆記用具も何もなく、どこにも鞄が見当たらない。いったい何をしに来たんだ、この男。200人以上収容できる大講堂で明らかに浮いている、この男。私の隣の隣に座った、この男。 「・・・ねぇ」 ヒッ!こっち向いた話しかけられた明らかに話しかけられた、さすがに凝視しすぎたか 「あの教授は日本語を喋ってんのかな」 「あー、あ?・・・多分」 私と同じこと思ってる人がいた、って違うか、そんな暢気なこと言ってる場合じゃないか。一体何を考えているんだろう、慌てて目を逸らしてみたけど視線を感じるような気がしないでもない、しないでもなくない?ん?なくなくな・・・ 「僕は」 なんか言ってる、独り言?私に話しかけてる?なに、なんだよもう面倒くさいな、 あと、一人称が僕って似合わない。僕って面じゃない癖に僕って言うな 「生きるとは何なのか、ずっと考えてる」 「はぁ、そうなんですか」 大変だ、頭おかしい人だ 「ねぇ、なんで生きてんの」 「・・・それは遠まわしに、お前死んじゃえば? と言ってるんですか」 「違う」 「はぁ、そうですか」 あと70分、授業時間があと70分ある。耐えられるだろうか、既に撃沈しそうだけどあと70分耐え抜けるだろうか。面倒なことになった、この男は頭のおかしい人だ 「僕、宗教学を勉強してるんだ」 まだ喋る気か、もう知らない。別に返事をする義理もないだろう、今は授業中だ。たとえ机の上のノートが真白のままでも、今は授業中だ。大丈夫、上手く聞き流せる、耳を閉じるのは得意だ。 「先週、輪廻転生のことを知って、それからずっと考えてる」 「僕らは僕らの為に生きられない」 「前世の行いのせいで今がある、今の行いのせいで来世が決まる」 「今の僕らは何処にいる?」 「今の僕らは、前世の僕らから生み出された僕らだ」 「今の僕らは、来世の僕らを生み出すための僕らだ」 「あらゆるものが自分の関与できない次元で操作されている気がしてならない」 この男の言うことはさっぱりわからない。未だにマイクで専門用語を連発している教授の言葉よりもずっとずっと異国語に似ている。返事をしないと決心してから耳を閉じようとしているのに、声がスルリと防御壁を飛び越えてくる。壁をぶち壊す勢いで入り込んでくるなら怒ることも出来たはずなのに、器用な男だ 「でも僕らは全力で生きなくちゃならない、来世の僕らの為に」 「やっぱり遣る瀬無い、僕らは何処に在る?」 「結局、僕らは前世の僕らと来世の僕らに縛られている」 「其の上から更に、罪が僕らを縛り付けているんだ」 「そうだろ、僕らは罪を償うために何度も生まれているんだから」 「罪を持っているんだよ。僕も、君もね」 《罪》その言葉だけ頭に響く。私にも理解できる重さを持った言葉。君も罪を持つ、なんて初対面の奴に言っていい言葉じゃないことも解っている。此れは流石に聞き流せないな。私は罪を犯したことなんてない、前世の私がどうであっても私は警察にお世話になったことなんてないんだ。罪を持つなんて、言われる理由なんてひとつもない。 「私は罪を犯したことなんてない」 「罪と犯罪は同義じゃないんだよ」 「同じでしょう、どちらも裁かれるものですよ」 「そうだ、犯罪なら裁かれる」 「罪も裁かれます」 「それだ、其処が違う」 「はぁ?」 「罪は赦されるものだ」 罪と犯罪は同義じゃない?犯罪は罪を犯すということ。何故同義じゃない?裁かれるもの・赦されるもの、何が違う?この男は一体何を言ってる? 「僕ら・・・いや、生きるものは罪を持っている」 「うん、言い方が悪いな。実は僕もまだ良くわからないんだ」 「先天的な罪と後天的な罪と言えば解りやすいだろうか」 「犯罪は後天的な罪と考えればいい。つまり、生きるものすべてが持つわけじゃない」 「生きるものすべてが等しく持っている罪は、先天的な罪」 「僕らは先天的な罪を償うために生まれ、そして生きている」 「つまり、既に裁きは下っているってこと」 「そして与えられたのが生きるという償い」 「だから罪と犯罪は同義じゃないって言ったんだよ」 「後は償いを認められ赦されるのを待つだけだ」 「其の為には・・・赦される為には、生きるしかない」 男の言いたいことは、なんとなく、ボンヤリとだけど、ハッキリとした輪郭は持っていないけど、わかったような気がする。でも、そうだね!って頷くことはできない。父も母も私も白髪の教授も犬も魚も猫も雀も、生きるものは罪を持つなんて、罪を持つから生きてるなんて信じては駄目だ。罪が世界を構成しているなんて信じては駄目だ。それを信じてしまったら、大切な何かを否定してしまうような気がする。何なのかは解らない、ただ信じては駄目だとそう感じる 「罪についてはもういいです。じゃあ私たちは何故、まだ赦されないのですか」 「生きるから」 「矛盾しすぎです」 「矛盾じゃない廻っているんだよ」 「また屁理屈ですか。じゃあ私たちは何故、廻っているのですか」 「終点がないから」 「終点?赦されることが終わりなら一生赦されないってことじゃないですか」 「本当の終点は赦されて解放されて消滅した時じゃないかな」 「消滅、ですか」 「僕の勝手な考えでは、終点とは消滅のこと」 言っていることがわからない。この男に、ついて行けなくなる、ついて行きたいわけではないけど。この男の頭は私の理解できない領域にいってしまったのかな、もう、なにがなんだか、私まで悪い影響を受けて頭がおかしくなりそうだ 「其れもつまりは赦されないってことですよね、消滅は赦された後に起こるのだから」 「結局は無限ループで終点なんてないんだ」 「もう、わけがわからない」 「そう、わからない、そして、かなしい」 「だけど考えてみなって、僕らは始点を持てるはずなんだ」 脳味噌がザワザワとする、私が建てたアンテナを揺らしながら駆けていく何か、駄目だ、其の正体を暴こうとしては、だめ、だめだめだめ 「存在を認められたものは全て始点を持っているはず」 「存在があるなら、始点を持つはずなんだ」 「何も無いところに存在を認めることなんて出来ないだろ?」 「終点は赦しと同じで誰かに与えられるものだけど、始点は創り出せる気がする」 「よし。さっそくだけど、50年後の夏にあの高齢者専用高級マンションで再会する約束をしよう」 男はそう言って、窓の外を指差した。そこには、男が熱心に見詰めていたマンションが建っている。あぁ、50年という呟きには、そんな考えが秘められていたのか。もう、男の言うことは、私の理解できる領域から大きく飛び出てしまったけど、この約束は交わさない方が良いと判断する力は残ってる 「始点を創り出すというのは、一つの終わりを迎えるということではないのですか」 「罪・償いという大きな輪の中に小さな輪を創り出すだけだ」 「大きな輪の中に囲まれた僕らは小さな輪を創り出すのが限界で」 「大きな輪には、触れることすら出来ない」 「どちらにしろ、其の約束で始点なんか創り出せないはずです」 「まぁ、気分ということで」 「守れない約束はしたくないので、お断りします」 「つれないな」 「貴方のせいで頭がおかしくなりそうなんです、やめてください」 「そんなつもりないのに」 「まず、其の穴だらけの考えをどうにかした方が良いと思いますよ」 あまり理解できていないから何処に穴があるのか其の穴はどれぐらいの大きさなのか、詳しく指摘は出来ないけど、この男が長々と喋っていた言葉は完成されたものではないはず ・・・あぁ気がつけばあと20分で授業が終わる。はやくはやく、走れ長針 「それに互いの名前さえ知らないんです、約束なんてしません」 「名前は言いたくないけど、そうだな・・・実を言うと僕は社会人で」 「今日は有給を使って、遊びに来た次第です」 「はぁ?・・・宗教学を学んでるとか、言ってたじゃないですか」 「其れは趣味で」 社会人?社会人でありながら大学に通っているってこと?休職でもしてるのだろうか。いや、確かに有給と言った。確かに働いているんだ、いま、げんざい。あぁ、だから鞄も筆記用具も机の上にないのか、ってそんな場合じゃない、此れは明らかに・・・ 「出てけ、部外者」 「あれ、敬語やめた。僕は君より年上なんだから敬語使うべきだろ」 「先輩でもない人間に?赤の他人に敬語?そんな義理はない」 「うーん、じゃ次は考えをまとめてから遊びに来るよ」 「その時は通報する」 「仕方ない、次は名前も教えてやる、サービスだ」 「いらない」 「せっかく創り出した始点を台無しにするのか」 「始点なんていつ出来た」 「僕と君が会話した瞬間に」 「会話で始点なんか生まれない」 「生まれるんだよ、僕の考えでは」 「穴だらけの考えを信じるほど馬鹿じゃない」 「そうか、じゃ次は穴を埋めてくる」 「次はない」 「でも、ボコボコ開いた穴から入り込むものは、きっと心地良いものだと思う」 「頭がおかしくなりそう。やめてください」 「僕も頭が破裂しそうだ、チョコある?」 小汚い格好をした男(社会人らしい)は、そう言って笑った。笑うと目尻に皺がよって幼く見える、本当は私と大して年齢が変わらないのかもしれない、でも部外者だ。頭が破裂しそうになっているなら、小難しいことを考えるのをやめればいいのに、考えたって答え合わせは出来ないのに、それなのにずっと考えてるからだ。 授業が終わるまであと5分、いつも以上に異国語に似た日本語が溢れていたから、私の頭も破裂寸前。 其の原因である男の、差し出された右掌に、グチャグチャに溶けた飴をのせる。もちろん”嫌味をたっぷり込めて”である。包装にベタリと張り付く飴なら、この男にあげても構わない 「あげる」 「おぉ、苺味!」 嫌味がたっぷりと込められた飴(しかも苺味)を嬉しそうに握りしめる、この男は、 「僕は苺が大好きなんだ、サンキュー」 一人称と苺が似合わない 輪廻尽き果て、 |