「 鎌倉は携帯を知っている? 」
次の授業は化学室で実験の予定だ
化学室は僕たちの教室から最も遠い場所に位置している特別教室だから早めに移動しなければ授業開始には間に合わない
それなのに、青木に突然制服を掴まれてしまった
普段、会話をするのは旧校舎で二人きりの時だけだから、ザワザワと騒がしい教室で話しかけられたことに驚きを隠せない
それに、青木が寝ていない事も驚きだ
いつもは朝からずっと寝ているのに、二時間目が始まる少し前のこの時間に起きていて、僕と会話までしている
「 まあ、知ってるといえば知っているよ 」
「 それなら、あの人の事も知っているのね 」
「 あの人って誰 」
「 坂本さん 」
青木が僕の制服の袖を解放した。そして、続々と化学室へ移動し始めるクラスメイト達の流れに逆らい、自分の机に戻ってしまう。
「坂本さんって誰」
「携帯の中に居る人」
机に突っ伏してしまった青木に溜息をつきながら僕も自分の席に戻る
僕の席と青木の席は離れているが、既に生徒がいなくなった教室の静けさは僕たちの声を、しっかり運んでくれる
「坂本さんが手紙を集めたり届けたりしてるの」
「どんな人?」
「32歳既婚男性、妻の名前は裕美29歳」
「凄いね、どこで知ったの」
「夢に出てきたの」
「へえ、坂本さんは手紙を捌いていたの」
「いいえ、すっかり温くなったココアを飲んでいた」
二時間目の始まりを告げるチャイムが鳴る
青木が窓の外を見る
授業をサボるのは不味いから、遅れてでも科学室へ行かなければならない
だが、青木はきっと行かないだろう
「坂本さんと話したの?」
「ええ、一時間ほど愚痴を聞かされたわ」
「そうか」
「もう限界らしいの」
青木の視線が僕を捕らえる
「坂本さんを休ませてあげて」
「わかった、坂本さんを休ませるよ」
「ありがとう」
そういって、青木はまた机に突っ伏してしまう
予想通り、授業にでる気はないようだ
理由はきっと、移動したくないから
「うん、ところで授業には行かないの」
「移動したくない」
僕はにっこり微笑んだ
(090404)